三億の鼓動

きっと何者にもなれないお前たちに、イベントスタッフにならないか?

話の枕

2023年。AIにお絵かきをさせることができるようになり、AI絵師を名乗る者と従来の絵描きのあいだで軋轢が発生したりして、Twitterはゴタゴタと大騒ぎだ。
なぜAI絵師を名乗る者は”絵師”を名乗りたがるのかというさまざまな考察があったが、そのなかの一つに

生成AIが出てくる以前に「あの有名なイラストレーター(/実況者/プロゲーマー)さんは私が絵師じゃないからリプライに反応してくれないんだ。私も何らかの方法でクリエイター側に回らないと相手にしてもらえない」という、本人にとってはかなり真剣な悩みを沢山聴いた事があるので結構納得度が高い。
引用元:https://twitter.com/technorch/status/1653039742236377089

という話がありました。私はこれに思い当たる節があったのです。
生成AIの話だけではありません。今の若者はきっと「何者かにならなければならない」という圧をひしひしと感じるのであろうと思います。もう一歩踏み込むと、己のアイデンティティーは何かという話でもあります。

インターネット上に存在する有象無象のうちの一人である自分は、何故あのキラキラした人たちと違うのか?
ああ、痛いほどよくわかります、俺がまさにそういった若者の一人だったから。

話の枕の途中だけど、ちょっとだけ昔話をさせてもらいたい。

2006年、俺は福井のド田舎から上京して東京の端っこで大学生活を送っていました。縁があって花見オフ会に誘ってもらえることがありました。
当時の私は19歳、何が面白いのか、何がおもしろくないのかの分別がついてないのに、目立ちたがりのどうしようもないクソバカでした。

そのオフ会にはいろんな人がいて、絵描きや同人作家、ラノベ作家にエロゲ会社の社長までいました。
そこで出会った、とある作家さんに「君は何をしている人なの?」と聞かれたとき、俺は返事に一瞬つまってしまったのです。

結局その問いにうまく答えることはできませんでした。当時の私は、自信をもって人に誇れるものは何一つ持っていなかったのです。
今思い返してみれば「学生です、コンピュータの勉強をしています」でも十分だったのだと思います。でも当時の私は「何を成し遂げた人なのか」と聞かれているような気がしてしまったのです、そして答えられなかった。
その場は適当に笑ってごまかしましたが、あまり良いリアクションがもらえなかったのを今でも思い出します。

つまるところ「己が何者なのか」ということを「何か成し遂げた結果」に求めていたのです。
若ければ若いほど何も持っていないし、なにも成し遂げていないのだから、そんな者にはなれないのに。
人と人が仲良くするのに、別に成功者である必要性はないのです。
君は何者なの?と聞かれたあの瞬間……なんでもいい、別に、なんだろう…、別にゲーマーですと答えれば、
「そう、最近何か面白いのあった?」で会話が成立するからそれでよかったんだ。あの場の正解はどちらかといえばそうです。
私は目の前に居並ぶスゴイ人たちに完全に委縮していたのです。

自分がクリエイター側に回ればクリエイターに相手をしてもらえるかといえば、それはまた別の話だし、おそらく思っていたような結果にはならならないのが現実です。
クリエイターがクリエイターと仲が良いように見えるのは共通の話題に富むことと、同じフィールドで活動している仲間意識、そして単純のその人同士で相性がいいこと、それだけのことだと思います。

「オタク」という大きな括りのコミュニティにおいて、もしヒエラルキーという形で階層を書いてしまえば、クリエイターという存在は上位層に位置すると言えるのは事実ではあります。
特に絵描きは別格です、篤く保護されマネタイズの道も多く整備されています。何も持たない若者が、自分もああなりたいな、と思うのは自然なことです。

で、世の中誰でもああなれるかといえば、そうでもない。そりゃそうだ、誰でもなれないから彼らは価値がある。
絵なんか誰でも描けるじゃんというのは、描けるから言えるのであって、習得までの道のりを苦痛だと思うタイプの人間のほうが多いのです。

本題

話の枕はここまでにして、本題に入りましょう。

若くてエネルギーを持て余している若者は、何かしなくてはいけない、何者かにならなくてはいけない、きっとそう思っていることでしょう。
そこに私たち年長者がやってきて「そうでもないんだよ」なんて言ったところで「そっかー」とは簡単に納得できないでしょう。
誰しもが自分が何者かになる可能性を信じたいし、そうでなければ人類は進歩しないのですから。

毎晩「何かをしなくてはならない気」になっているけど、何か特技があるわけではない、そういうエネルギーを持て余している状態を、モラトリアムとかルサンチマンとかそういう言葉で説明することもできるのでしょうが、私は学がないのでそういうことはできません。。

でもエネルギーの発散の仕方は知っています。

そうだ、イベントスタッフをやれ!
イベントのスタッフだ!

同人誌即売会でも、コスプレイベントでも、どっちでもいい。
オタクイベントのスタッフのことだ!

ハッキリ言うと、イベントスタッフになったところで名声は得られない。
大っぴらに言いふらすようなポジションでもないし、同人名刺に書ける肩書でもない。
もちろんお金だって儲からないし(ボランティアだからね)、なんだったら一般参加者からのクレームにさらされることだってある。

でも、イベントはスタッフがいないと成り立たない。これは事実。
何者でもなかった君は、イベントスタッフになった瞬間から場の維持者になる。
同人誌即売会の守護者であり、誇りある戦士だと思っていい。

得られるものがまったくないわけではない、精神的な部分が多いがそれが重要だ。
やってみればほどほどに忙しく、そして今まで見たことが無かった光景を見ることができる。
終わってみれば何かを成し遂げたという気持ちにはなるし、この人の集まるイベントを支えている、人の役に立つということは自尊心をほどよく満たしてくれる。
大切なことなので2度言うが、人の役に立つということは自尊心に効くんだ。

悪い話ではないだろう?

イベントスタッフに特殊な能力は必要ない。いや、必要とされるポジションもあるのだが、基本的に誰でも出来るように作業は標準化されている、大きいところこそそうだ。
そうして経験を積んで行けば、出来ることの引き出しはどんどん増えていくだろう。
もちろん、イベントスタッフだって向いている人と向いていない人はいるけど、寝坊さえしなければ大丈夫だ。
「なにか判断を求められるなら1つ上の立場の人に即相談」ということだけ覚えておけばなんとかなる。

同人誌即売会等のイベントでは多くの人が集まる、きっといろんな人に出会うだろうし、そのうちに自分にできそうなことや、興味が持てそうなことと出会えるかもしれない。
ウマの合う仲間と出会う可能性もあるし、いろんな話を聞ける機会でもある。
逆に何か失敗することもあるかもしれない、でもだいたいは主催が庇ってくれるし、次に生かせばいいだけだ、悪い経験ではないと思う。

私は敬虔なブッティストなので、人と人のつながりは「縁」だと思っている。
仏教で「縁」とは因果の直接的なつながりのことではなく、因と果を繋ぐ外部的で間接的な力のことだ。
そして事が起きるきっかけのことを「機縁」というが、「機」とは衆生が持つ資質のこと。
つまり自分の資質と人の助けが揃って物事が進むということをブッダは言っているわけだ。
イベントスタッフはそのように人の助けになるし、助けを得られるかもしれない。

畑に種をまいても水が無ければ育たないように、インターネットでレスポンチバトルに明け暮れたり、人のアラを探すような鬱屈した毎日を過ごしていたところで、きっと何者にもなれない。それだったら、いっそ人の役に立つことにエネルギーを使ったほうが良い。

探せばどこかでイベントスタッフの募集がされていると思う、大きいところではコミックマーケットなんかがそうだ。
最初はハードルが高いと思うかもしれないけど、今の世の中どこだって人手不足だ、募集しているところならきっと温かく迎えてくれるはずだ。

設営のときの熱気、賑やかなイベントの空気、後始末をしたあとの静けさも、スタッフとして味わうとまた別のものを感じると思う。
良い酒の飲み方も知るだろう、そう、人の役にたつことをして汗をかいた後のビールはうまい。酒がダメならメシだってそうだ、働いた後の飯はうまいんだ。

というわけで、何者かになりたい?
じゃあイベントスタッフとかどう?